2004.07.12 Monday
島の西部にある知名瀬地区。集落から農道を数百メートル分け入った薮の中に、天井が潰れ窓ガラスを割られた車が、無造作に放置されていた。昨夜の雨に濡れた車体が、背丈ほどに伸びたススキの間から鈍い光を放っている。
ぬかるんだ畔道をさらに奥に進むと、用済みとなった自動車が山と積まれていた。あるものはドアがなく、あるものは窓ガラスを割られ、またあるものは原形をとどめない程に潰されている。中には錆びが酷くて朽ちているのもある。
佐々木さんの話によると、この場所に放置されている自動車はおよそ三五〇台。引取り業者は特定できているが、土地所有者の合意を取りつけた上で放置しているので、市当局は直接手が出せない。当該業者は、再三指導したにも拘わらず、すでに生活保護を受ける身で、処理が進む見込みは立たないという。
知名瀬地区から車で五分。幹線道路から海岸方向に一〇〇メートル程入った林道脇の林の中に、目を覆うばかりの廃車の群れがあった。林道から下の崖を見遣ると、溢れた自動車が海に向かって雪崩を打っている。車体に「農林水産省」の文字の入ったライトバンが、ひときわ無惨な姿を晒している。
この周辺に投棄された廃車はおよそ二〇〇台。市の指導を受けて、投棄を行った業者は数台くらいは処理したらしいが、その後処理業から手を引いたため、ほとんどがいまだ放置されたままだ。知名瀬地区と同様、今後の処理の目途は立っていない。
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2004.07.10 Saturday
琉球の使節が軍隊を伴って海の向こうからやってきて、喜界島を従えたのが一四六六年。琉球の時代は一般に「那覇ン世」と言われ、奄美では平和な時代として認知されている。対して、続く薩摩支配では「黒糖地獄」に象徴される収奪によって、島は大いに苦しめられた。薩摩が奄美を永く生番扱いにしていたことは、奄美に島流しに遭った西郷隆盛が、島人を「毛頭人」「えびす共」と蔑んだことにも明らかだ。従って、本土では不世出の英雄として衆庶の尊敬を受ける西郷を祀る記念碑が、奄美では一介の石碑とみすぼらしい庵に過ぎないのも止むを得ない。
西郷とは正反対に、大和人で奄美に移り住み、その死後大いに壮尊敬を集めるに至った人物もいる。名を田中一村といい、その死後「異端の画家」として全国に知られることになった絵描きである。生前は不遇続きだったが、死の二年後に開かれた名瀬市での遺作展では、三日間の動員が三千人を超え、広く市民に知られるところとなった。「貧乏でなければ良い絵は描けません」と言って、赤貧洗うがごとき生活を続けた一村は、「歩行訓練」と称する朝の散歩の途中、密林の中に身を措いて画想を蓄え、一端絵筆を握るや鳥肌を立て、血管を浮き上がらせて絵絹に向かったと伝えられる。
一村の作品は植物を描いたのが多いが、筆者はこれを最初不思議に思った。しかし奄美に来てみると、美しい海以上に亜熱帯の密林に覆われた山々に、とりわけ強い印象を受けることを免れなかった。密度の濃い深緑に覆われた、生命力漲る山々の光景は本土ではちょっと観られない図で、作品に命を吹き込もうとした一村が、強く惹かれたのも当然かもしれない。生存中は世間との繋がりをほとんど絶って絵に没頭した一村を、立派な記念館まで造って大切にする島人の寛容性もまた、奄美の大きな魅力のひとつであろう。
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2004.07.07 Wednesday
名瀬市屋仁川地区。市役所環境対策課の渡さんに誘われて、こぢんまりした地元料理の店に入った。器量の良いママさんがパートの女性と二人で切り盛りする感じの良い店だ。屋仁川地区は小さな飲食店が並ぶ繁華街で、昼は閑散としているが夜になると仕事帰りのサラリーマンや観光客で賑わう。奄美に来た大和人は、黒糖焼酎で杯を満たしながら島の言葉に耳を傾ける。地元の居酒屋は、異国情緒漂う奄美を実感するに相応しい場所だ。名物料理の豚足などを肴にしながら、話は奄美の歴史や文化へと及んだ。
奄美大島が日本の歴史に登場した年代は意外に古い。史料上の初見は、『日本書紀』(以下『書紀』と記す)斉明三年七月丁亥朔条(ていがいのさくじょう)で、
「都貨邏国の男二人女四人、筑紫に漂泊せり。言さく、「臣等、初め海見嶋に漂泊せり。」」
とあり、斉明三年すなわち六五七年に「都貨邏国」(とからのくに)の人が初めて奄美の風俗を伝えたことがわかる。『書紀』には、その後、六八二年(天武十一年)に「多禰人・掖玖人・阿麻弥嶋人」が朝貢した記事が見え、大和王権による南嶋政策の一端を示しているが、政策の目的が、「版図の拡大・遣唐使の航路確保」にあるのか、「貢納制的支配の拡大」にあるのかは、研究者の間でも意見が分れている。
以後、一時奄美は日本史の表舞台から姿を消すが、十五世紀には琉球の支配下となる。
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2004.07.04 Sunday
東京海洋大学の兼広春之教授によれば、海洋ごみは一般に「マリンデブリ」と呼ばれ、海岸漂着ごみ以外にも海面を漂流するごみ、海底に堆積するごみがある。とりわけ最近ではプラスチック廃棄物による汚染が深刻で、世界の海に流れ込む年間数百万トンからのプラスチックが、漁場環境や生態系に悪影響を与えている。しかも、プラスチックはその性質上ほとんど分解しないから、一度海に出てしまえば半永久的に海を漂い続ける。
こうして海を漂った末に流れ着いた様々なごみは、日本の浜や漁港、港湾を埋めている。実は、これらのごみは、内陸部から川を下って海に流れ出したものも多い。国土交通省、林野庁、水産庁が平成十四年度に駿河湾で行った調査では、海岸利用による生活ごみは全体でたったの八%に過ぎず、河川から流出したごみ(木質系自然ごみ八二%、生活ごみ一〇%)が大半を占めるという結果が出た。海岸漂着ごみの内容は、その地域の如何によってかなり差があるから、この調査結果を以て全体を評することはできない。が、内陸部に住む人間は海岸のごみには無関係だ、などというのは問題の本質を理解しない見方で、人間の生活が自然環境に与える影響に対して、全く無感覚なる譏りを免れない。
海岸漂着ごみの処理については、国としての統一的な対策はなく、住民やNPOのボランティアに頼っているのが現状だ。近年、海岸の美化に対する住民の意識が向上してきたことで、全国の延べ清掃活動回数は年間一万八千回を超えるという。しかし、兼広氏によれば、これだけ海岸美化への取組みが活発になったにも拘わらず、海岸のごみは一向に減る気配がない。また、排出者を特定できない海岸漂着ごみは、当該市町村が処理費用を負担するか、「事業系一般廃棄物」として清掃活動当事者が負担するという、馬鹿らしい事態に立ち至る場合がある。どこからともなく流れてきたごみを、被害者であるべき市町村や回収当事者が費用負担して処理するのでは理屈に合わない。国による積極的な対策が待たれるところだ。
美しい夕暮れの光景を観ることができる浜の一隅に、地元の小学生が詠んだという一編の詩が掲げてある。
「黒い浜 歩くウミガメ 泣くばかり」
激烈な生存競争を生き抜いて、卵を産むためにやっとの思いでたどり着いたウミガメを、ごみの山で追い返してはいけない。
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2004.07.01 Thursday
黄緑色の実をつけたアダンの木が茂る中を、潮風が吹いてくる方角に向かって歩いていく。目の前に広がる遠浅の海の遙か沖で、クリフにぶつかったうねりが白い波頭を揚げている。そこから珊瑚礁を隔てて筆者の立つ白い砂浜には、穏やかな波が薄紗(はくしゃ)の縮れたようなしわ皺(しわ)を寄せている。空と海との境界は朧気(おぼろげ)な霞のうちに溶け込んで絵画的にぼかされ、見る者に、遠い遠い海の彼方のニライカナイを連想させる。
人間の生存には、一定の空気と、一定の水と、一定の広袤(こうぼう)を要することは魚の水におけるがごとしだが、大都市の人間は、空気も水も自ら造ることはできず、さらに広袤までも今やほとんど奪われて、息の塞がりそうな毎日を暮らしている。で、折々地方の海や野山に赴いて本然の姿を取り戻そうとする訳だが、野山のみならず海の景観もまた、次第に脅かされつつある。
島の南部に、かつて、産卵のためにたくさんのウミガメが上陸したという美しい浜がある。東シナ海に面したこの浜に、南の島の美しさを求めてやってきた都会人は、その予想外の光景に呆然と立ちつくすより外はない。真っ白な浜一面が、大小様々なごみで足の踏み所もないほどなのだ。サッカーボール大の浮き球、漁網やロープのような漁具、ポリタンク、空き缶、ペットボトル、朽ちたドラム缶、古タイヤ、電球、廃油の真っ黒な塊、タバコの吸い殻、また流木や海草など自然のごみ(?)まで、永年海を漂った末に打ち寄せられたものは実に様々だ。台風が通過した後などは、殊に激しい量のごみが押し寄せるという。
その浜は、近隣住民のボランティアによって、年に二、三回の清掃活動が行われている。しかし、半年も経たぬうちにこの有様になるのだという。しかも、国内からのごみ以上に中国語やハングル文字の入った外国からのごみが多いというに至っては、海岸漂着ごみの問題がすでに国際的性質を帯びていることが解る。幾月も波に洗われた末にこの美しい浜に流れ寄るのが、藤村(とうそん)のいわゆる椰子の実ではなく、これら無数のごみであることに、筆者も嘆息せざるを得ない。
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2004.06.30 Wednesday
大島を含む奄美群島が、北緯二八度三二分三〇秒から二七度〇分五三秒にわたる南北に長大な島嶼群であるということを知る日本人は、意外に少ないかもしれない。そういう筆者自身も、今回訪れるまでは島々の正確な位置さえ知らなかったことを、ここに白状する。奄美群島は、大島、喜界島、加計呂麻島、請島、与路島、徳之島、沖永良部島、与論島の有人八島で構成される。現在は鹿児島県に属し、名瀬市の他、十町三村がある。南北二〇〇??以上に及ぶ大島郡は、日本最長の郡でもある。
群島中最大の奄美大島は、離島では佐渡島に次ぐ大きさで、総面積七一二.二一平方キロメートル、周囲の長さは四六一??に及ぶ。飛行機から眼下を見渡すと、海岸線にまで迫る山々の峰が幾重にも重なって、南の島というと蒼い海しか頭になかった筆者のような不心得者には、一種異様の趣がある。後で調べてみたら、それは飛行機から眺めた光景に限ったことではない。実際に島の八五%は山林原野に覆われ、耕地面積は全体のわずか二.七%に過ぎない。従って、冒頭に書いた南の島における開放感云々という景色を見るのは、実は、比較的平地が多い島の北部でのことで、それ以外ではほとんどが亜熱帯の密林の中を走る山道だ。地図で見て数キロの距離が、実際に走ってみたら意外に時間がかかるというのも珍しくはない。
奄美の気候は亜熱帯海洋性。筆者が訪れた三月は、すでに汗ばむほどの陽気だ。もちろん、南国だけに夏の暑さは格別で、一年の半分は夏日を記録するという。特に奄美の夏といえば必ず俎上に上るのが台風で、昔は酷い目に遭うことも度々であった。とかく災難とは重なるもので、終戦の年の一九四五年九月に襲った台風では、死者六五名、負傷者一八名、全壊半壊合わせた住宅被害は一四,三四八軒という大被害を被った。戦中以来の耐乏生活を余儀なくされてきた島民にとっては、困窮ここに極まれりという状況だったろう。
敗戦後、八年の米軍支配を経て奄美群島は本土に復帰、以来特別措置法に基づく振興政策によって生活水準は漸次向上し、台風による被害も、各方面のインフラが整備されるにしたがって減少してきた。しかし、物質文明が益々盛んとなりつつある現代にあって、奄美は島であるが故の新たな問題を抱えている。
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2004.06.28 Monday
「ほんとにきれいな海でしょ。風が吹く度に色が変わりますよ。」島の案内を買って出てくれた名瀬市市民福祉部長の佐々木さんが、穏やかな表情でこう言った。三月もいまだ中旬だというのに、すでに初夏のものとも感じられるような陽射しを受けて、脚下に展開するびょうぼう渺茫たる海がきらきらと輝いている。水平線の向こうには、霞の中にしんきろう蜃気楼のように浮かぶ喜界島の影。桜はとうに終わったというから、島はこれから梅雨を経て夏に向かう。
南の島に降り立った時の心持ちというのは、他ではちょっと味わえないものだ。視線の先の障害物といえば、潮風にゆらめ揺曳くサトウキビ畑と島に特有の瓦屋根くらいで、大小のビルに視界を妨げられて遠い景色を眺めることの少ない都会人には、いかにも開放感がある。頭上に広がる蒼い空に、太陽の恵みを受けた山々の深緑は頗る配合が良い。海岸沿いの道を行けば、ハイビスカスの花が時折派手やかな真紅の顔を覗かせる。東京から飛行機でたった二時間のフライトの後で、車窓を巡るみずみず瑞々しい光景を目の当たりにすると、普段の鬱々たる日々を脱して一種蘇生の感がある。大都会は開化した沙漠だと誰やらが言ったが、南の島に来てみると改めてその思いを強くせずにはいられない。
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2004.06.23 Wednesday
ものを書く、つまり「アウトプット」することの裏側には、通常それに匹敵するだけの「インプット」の作業があるものです。身近なところでは、読書や映画鑑賞、友人との会話、あるいは散歩などなど。身近なところから離れれば、旅やフィールドワークは立派な「インプット」になり得ます。
「アウトプット」はものを書くことに限りませんが、ともかく、何らかの有益な「アウトプット」ができるようになりたいと思ったら、それに倍する「インプット」に意を用いる必要があります。
最近僕が注目しているジャーナリストの日垣隆氏は、徹底した現地取材に加えて、一月に120冊(!)もの本を読むそうです。なるほど、日垣氏の著作やテレビでのコメントを聞いていると、いちいち肯かされてしまいます。まあ、読書量に限っても、せいぜい氏の15分の1に過ぎない僕が、最初から叶うはずがないのですが(笑)。
次回からここで連載する「奄美紀行」は、2泊3日の現地調査と5,6冊の読書という「インプット」から産まれたものです。活字にして人様に読んでもらうには、あまりにお粗末な「インプット」の内容ですが、お金は取らないので、どうか勘弁してもらいたいと思います(笑)。
それでも、職場内での評判は、まあまあなんですよ(^^ゞ
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2004.06.21 Monday
故郷に帰る度に、あることに気がつきます。夜は暗い、ということです。当たり前じゃないか!なんて言わないでください。これは、都会に住んでいると意外に解らないものです。都市生活で、自動販売機の明るさに目を奪われる、ということはあまりないですよね。それだけ都会の夜は明るいのです。
数年前にラオスを旅した時のこと。僕が宿を取ったメコン河沿いの小さな村は、生活に使う電気を自家発電で賄っていました。もちろん電気は貴重品、ということで、8時には消灯。都会生活に慣れた旅人といえども、自然の闇には手も足も出ず、翌朝ニワトリの鳴き声で目覚めるまで、おとなしく眠っているしかありませんでした。
もともと暗いはずの夜を明るく照らして、人間が活動する時間を拡大した、というのは、確かに画期的なことです。でも、日常の生活から夜の闇を取り去ってしまうのは、もったいないことです。遺伝子工学の権威、村上和雄氏(筑波大学名誉教授)は、「大発見のきっかけは、しばしば夜の闇の中での閃きによるものだ」と言っています。村上氏の言う「ナイト・サイエンス」は、夜の闇があるからこそ生まれるものなのです。
そういえば、昼間のような明るい場所だったら、あんなことは言えなかったかもしれない、ということが、僕にもないではありません(笑)。それも、「ナイト・サイエンス」の賜物かもしれませんね。
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2004.06.15 Tuesday
小中学生の頃、作文の時間はいつも憂鬱でした。本はそこそこ読む方なのけれど、文章を書くのはどちらかというと苦手。夏休みの読書感想文の宿題などは、最後の最後に悪戦苦闘した思い出があります。原稿用紙がなかなか埋まらない時の重苦しさ、皆さんも経験があるのではないでしょうか。
文章を書く、ということへの意識が変わったのは大学1年の時。教養を深めようと肩肘を張って(苦笑)、福澤諭吉『学問のすすめ』を読んでからです。福澤の明快で強烈な主張を読んで衝撃を受けたことと、それに啓蒙された明治の日本人がついに近代国家を創ったことに感銘を受けて、いつか自分もこんな著作を世に出してみたい、などど無謀な(笑)夢を抱いたのがきっかけです。今思うと、文を書くスキルさえお粗末なのにそんなことを考えるあたり、「自分も若かったなぁ」と、ちょっと恥ずかしい思いがします。
その僕が、最近、自分の作品を発表する機会がありました(照)。まあ、発表といっても、僕の職場で、全国の関係者向けに発行する機関誌なのですが。。。(もちろん非売品)その機関誌に、3月の奄美大島出張を題材に8000字くらいののレポートを書いて、ささやかな「夢実現」の運びとなりました。
まだまだ福澤にはおよびませんが(笑)、僕の記念すべきデビュー作を「ぜひ読みたい!」という奇特な人がいたら、ぜひご一報を! …って、誰もいなかったりして(^^;;
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