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その6 奄美と大和(後)

琉球の使節が軍隊を伴って海の向こうからやってきて、喜界島を従えたのが一四六六年。琉球の時代は一般に「那覇ン世」と言われ、奄美では平和な時代として認知されている。対して、続く薩摩支配では「黒糖地獄」に象徴される収奪によって、島は大いに苦しめられた。薩摩が奄美を永く生番扱いにしていたことは、奄美に島流しに遭った西郷隆盛が、島人を「毛頭人」「えびす共」と蔑んだことにも明らかだ。従って、本土では不世出の英雄として衆庶の尊敬を受ける西郷を祀る記念碑が、奄美では一介の石碑とみすぼらしい庵に過ぎないのも止むを得ない。
西郷とは正反対に、大和人で奄美に移り住み、その死後大いに壮尊敬を集めるに至った人物もいる。名を田中一村といい、その死後「異端の画家」として全国に知られることになった絵描きである。生前は不遇続きだったが、死の二年後に開かれた名瀬市での遺作展では、三日間の動員が三千人を超え、広く市民に知られるところとなった。「貧乏でなければ良い絵は描けません」と言って、赤貧洗うがごとき生活を続けた一村は、「歩行訓練」と称する朝の散歩の途中、密林の中に身を措いて画想を蓄え、一端絵筆を握るや鳥肌を立て、血管を浮き上がらせて絵絹に向かったと伝えられる。

 一村の作品は植物を描いたのが多いが、筆者はこれを最初不思議に思った。しかし奄美に来てみると、美しい海以上に亜熱帯の密林に覆われた山々に、とりわけ強い印象を受けることを免れなかった。密度の濃い深緑に覆われた、生命力漲る山々の光景は本土ではちょっと観られない図で、作品に命を吹き込もうとした一村が、強く惹かれたのも当然かもしれない。生存中は世間との繋がりをほとんど絶って絵に没頭した一村を、立派な記念館まで造って大切にする島人の寛容性もまた、奄美の大きな魅力のひとつであろう。
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