2004.09.03 Friday
10日前に、三十歳になりました。二十代のうちは、三十代を迎えることなど想像がつかないものですが、“その時”は、本人も知らぬ間に、何ともあっけなく訪れるものです。この間まで学生だったのに、と嘆いてみても、時間は元には戻りません。
「三十路」という言葉は、あまり良い意味で使われることはないでしょう。より若い者が三十歳を過ぎた者を揶揄するとき。また、もはや若くない(?)年齢に達した自身を自嘲して云うとき。少なくとも、青年から壮年に移る一つの節目であることに変わりはありません。
三十歳の僕は、これまでの十年を振り返ります。自分は、然るべき二十代を過ごしてきたのかと。
十数カ国をひとりで歩いてきたり、600本を超える映画を観たり、それ以上の本を読んだり。人がやらないことも随分経験した二十代だったように思いますが、今それ以上に心に浮かぶのは、これまでの十年でできなかったことの数々です。酔いつぶれて前後不覚に陥った経験はなし、髪を金髪にしたこもなし、身の周りの整理はついに苦手なままです。それに、女性の扱いはお世辞にも上手いとは言えません(苦笑)。
誕生日の晩、布団の中で、二度と戻らない二十代を想い、来たるべき三十代を頭に描きました。過ぎた十年は何物にも替えがたい十年ですが、これからの十年は、一生の内でさらに重い十年となるに違いないと思いました。ここで怠けたら碌な将来にならぬこと、身の回りの生きた標本が教えてくれています。
刻苦勉励、常に研鑽を怠らず、はちょっと大袈裟ですが、とにかく魅力溢れる大人になりたいものです。少なくとも、ここで感傷的になっている場合ではありません(笑)。
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2004.08.31 Tuesday
夕方、東京霞ヶ関の、さる中央官僚を訪ねました。仕事柄、霞ヶ関の官僚と接することは多いのですが、彼は、僕の個人的な知己の中でも、特別に地位の高い人です。世に云う○○省高官というやつです。
僕のような若僧が、どうしてそんな御仁と付き合いがあるのか。それは、僕が特別に仕事ができるから、では、断じてありません(苦笑)。勿論、賄賂を使ったわけでもありません。
同氏は、○○省高官という肩書きの外に、数足のわらじを履いています。曰く、日本ペンクラブ会員、曰く、森の探検家、曰く、ノンフィクション作家。中公新書から『森林理想郷を求めて』と題する著作も発表しています。某大学から博士号を取得した経歴も持っています。
中央官僚というと、とかく明晰な頭脳で国家を動かすエリートというイメージがあります。事実、僕が接してきた官僚の皆さんは、机上の空論を振り回して、面白くもない話をする人が多かったように思います。(失礼!)
しかし、同氏は全く違う。発想が他の官僚とは全然違うのです。話をしながら、僕は何が違うのかずーっと考えていました。そして考えているうちに、養老孟司氏の本にあった「スルメを見てイカがわかるか」という言葉を思い出しました。
目の前で喋る、日本ペンクラブ会員兼、森の探検家兼、ノンフィクション作家兼、農学博士の先生は、活きたイカの話をしているのです。死んで干物になったスルメは歯牙にも掛けないから、話が面白いのです。
彼は、週末になると、離島や僻地と云われる場所に赴いてその土地を体感し、東京に戻っては、現場で活動する様々な分野の人々と杯を共にします。彼の頭の中には、常に新鮮なイカが踊っているのです。
都会には情報が溢れていると云うけれど、溢れている大半は、干物になったスルメに過ぎません。スルメを見てイカがわかった気になってはいけない。旅人が外国で常に思い知らされることですが、日常に戻ってしまうと、簡単には気がつかない。
旅人たる者、イカを語る、魅力的な人間にならなければなりません。
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2004.08.24 Tuesday
旅に出かける前、日常と旅との間にはすきまがある、と書きました。それと同じように、旅から帰った後には、旅と日常との間にも、すきまが存在します。2日くらいかけて日常と旅のすきまを抜け出して、気持ちよく旅を続けて十数日間。たった十数日間の後に帰った日常に、旅人はすでに大きな懸隔を感じます。
日常と旅のすきまを抜け出す以上に、旅と日常のすきまを抜け出すのは難しいものです。もちろん、仕事をしていてこれほど危ないことはありません。帰国翌日にボンヤリしたまま出勤して上司に何か問われても、未だ旅と日常のすきまにある僕は、即座に回答することができません。体は職場にいても、心は半分、片雲の風に誘われて異国の地を歩いているのです。
日本では、旅と日常のすきまに嵌ったまま、給料取りは勤まりません。しかし、仕事以外の世界を持たない人に、あまり魅力的な人はいない、と僕は身の周りを見て感じています。給料取りにも感性が必要だ、と僕は内心思っています。
旅と日常のすきまを抜け出すどころか、この週末、僕は高熱で寝込んでしまいました。感性だとか言う前に、はやく社会復帰しなきゃ取り残されるぞ!と、朦朧とした意識の中で、誰かに言われた気がしています。
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2004.08.07 Saturday
インドの旅、といえば、すぐに思いつくのは鉄道です。インドは世界第2位の鉄道大国、営業線路網は総計6万3000キロ、駅の数は7100、1日の乗降客数は1300万人に上ります。昔植民地支配したイギリスが、インドにおける鉄道の基礎を築きました。
インドの列車にはいくつかの種類があります。一等席、二等席、またそれぞれにエアコン車、寝台車、というのが主なものです。一等席は快適ですが、趣味の点から言って二等席に乗ったほうが旅の醍醐味を味わうことができるでしょう。二等席にはインドの一般庶民が入れ替わり立ち替わり換わり乗ってくるうえに、さまざまな物売り、バクシーシを目当てにする乞食の類で大混雑を醸します。しかも二等車に乗る日本人は珍しいので、ジロジロ見られるのも、一種貴重な経験です。
一日、僕はタンジャヴールという町から、人に乗り換えのルートを訊きながら、マハーバリプラムという村までやってきました。ガイドブックには細かい情報がないので、地図を片手に人に訊いたほうが旅がしやすいということもあります。300キロ乗ってたったの200円、という安さも魅力のひとつです。
「世界の車窓から」を実地に経験してみたい人には、インドの鉄道が一番のお勧めです。
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2004.08.03 Tuesday
バスで6時間、マドゥライにやって来ました。ここは。カーニャクマリから230キロ北にある、南インド最大の聖地です。北のバラナシは、ガンガーの沐浴で日本でも知られていますが、南インドにおいて同様の地位にあるのが、ここマドゥライです。
マドゥライを聖地たらしめているのは、何といってもミーナクシ寺院。東西254メートル、南北238メートルの広大な寺域を持つヒンドゥー寺院で、16世紀にこの地を支配した王が建立しました。高さ50メートルを誇るゴプラム(塔門)が、東西南北にそびえ、境内には、金箔された高塔を伴う二つのヒンドゥー神殿があります。
昨日の夜、僕もミーナクシ寺院に参拝に行って来ました。入り口前にサンダルを預け、中に入ると、千柱堂という壮大な建築があり、その奥に50メートルプールほどの沐浴場、そして2つの神殿があります。寺院内は薄暗く、神秘的な空気が漂って、浅黒いインド人に混じりながら歩いていると、何だか、ヒンドゥーの神様に魂が抜かれてしまうような気になります。
町の雰囲気にも、120万の大都会らしい喧騒と、聖地に相応しい門前町の様相が渾然とししています。マドゥライは、インドらしい性格を持つ町のひとつかもしれません。
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2004.07.30 Friday
インドに着きました。一昨日まで当り前に働いていたのに、飛行機に15時間くらい乗ったら、あっという間に別世界。日本を遠く離れた場所なのに、遥々やって来たという気がしません。何だか騙されているような感じが、しないでもありません。
僕が今日列車に乗って着いた町は、インド最南端の町、カーニャクマリ。小さな海辺の田舎町ですが、インド人にとっては聖地のひとつとされ、巡礼に訪れる人が大勢います。
ここは、アラビア海とベンガル湾が出会うコモリン岬にあります。高い波にも拘わらず、インド人が沐浴をする風景が、夕方の浜辺に見られます。
この国がどんな国なのか、まだ、僕にはよく解りません。広大なインドを一言で語るなど所詮無理なことですが、今までに訪れた国のいずれとも違っているように感じます。日常と旅のすきまを抜け出した時、少しは解ることがあるかもしれません。
解ることがあるかどうかはともかく、南インドからの便りを、これからも書いていきたいと思います。<>hare.gif<><><><>
31<>カーニャクマリ名物<> ここカーニャクマリは、インドにある数多い聖地の中のひとつです。北緯8度線がすぐそこにある南の地で、椰子の森と海と太陽とバナナしかない、小さな村。道行く人の穏やかな表情が、実に印象的です。
カーニャクマリで一番の見物は、ベンガル湾から昇る朝日でしょう。この小さい村の、どこにこれだけの人がいたのかと思われるくらいの数が、浜辺のガートに押し寄せ、昇り来る太陽に手を合わせます。人は美しいものを見ると手を合わせたくなるのかもしれません。
また、南国だけにバナナの美味しさは格別です。今まで食べていたバナナは、果たして別の食べ物だったかと思うくらいの味。すでに腹の調子が思わしくない僕には、ありがたい南インド名物になりそうです。
これからもう一度海を眺めに行って、翌朝日の出を拝んだら、11時のバスで次の目的地へ向かいます。。
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2004.07.28 Wednesday
サラリーマンの宿命で、社会人になってから、僕は夏休みの限られた時間を利用して旅を続けています。旅ができるだけだけ恵まれている、とは思いますが、旅仲間と話した時などは、昔の自由を懐かしんで気儘が口をついて出てしまいます。学生の頃はと言えば、論文等で多少の制約はあったものの、比較的自由に計画を立てて、しっかり準備をして出かけたものです。
ここで言う準備、とは、心の準備のことです。サラリーマンは、ある意味で決まったスケジュールをこなしながら毎日を暮らすわけで、レールの上を走っていれば給料は確実にもらえる。その意味でラクに生活できる身分です。おまけに、日本は生活インフラが過剰なほどに整っているうえに基本的に治安は良好、国民の間には一定の相互信頼があります。
その日本で気楽に暮らす人間が、見知らぬ国に突然放り出された時の心境は、実に妙なものです。一人旅、特に発展途上国でのそれは、ある意味で毎日が“戦い”なのですが、人の心の持ち様は、そう簡単には変わらない。「日常」から「旅」へとシフトするまでの1日、2日の間、気持ちの中に、どうしても“すきま”ができるのです。何しろ、当地に降りた途端、旅行者のスキを窺う現地人が容赦なく攻撃を仕掛けてくるのだから、そんな時ほど、危険を感じることはありません。
今回も、心の準備は一向に整わないまま、明日から僕は南インドに出かけます。このコーナーは、「旅と旅の間に横たわる日常」を書いていくエッセイですが、しばらくの間、「旅の中のすきま」を、インドからレポートしたいと思います。
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2004.07.24 Saturday
名コラムニスト山本夏彦は、その昔、「PR」という言葉を「自慢話」または「自画自賛」と訳したものです。言うまでもなく、「PR」は「パブリック・リレーションズ」の略、すなわち「宣伝活動」「広報活動」と、辞書には出ていますが、夏彦翁の訳は、実に云い得て妙、というほかありません。
日常、世間で行われる「PR」の中に、自らの卑下に終始したものはありません。電車の中吊りで見る雑誌の広告は、何れも面白い読み物のように見えるし、テレビコマーシャルで有名人がビールを飲めば、いかにも美味しそうに映ります。
世の中は、「PR」に溢れています。
ところで、僕は、「PR」??「自慢話」が不得意、というよりも、好きではありません。父親は、口癖のように「不言実行」「能ある鷹は爪を隠す」と云って、小さい頃から僕に諭してきました。自画自賛しなくとも、見ている人は必ず見ているものだ、と。したがって、およそ中身が伴わないのに、すぐに「PR」したがる心情を、僕は好みません。
とはいいながら、黙っていても常に認めてくれるほど、世間は甘くないのも事実。誰しも「PR」に余念のないこの社会では、適度の自己主張がなければ埋もれてしまうことも、ままあるものです。
で、僕は、折々勃然と思い立って、自分が嫌いにならない程度の「PR」を催すのです。
このサイトも、そんな「PR」の一種かもしれません。世間一般の「PR」に堕落しないよう、努めていきたいと思います。
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2004.07.20 Tuesday
四月下旬、東京に田中一村展がやってきた。「奄美群島日本復帰五〇周年記念」の一環として、東京の大丸デパートで開かれた展示会に、筆者も足を運んだ。代表作「アダンの木」や「クワズイモとソテツ」の前にたたず佇んで、初めて目前にした一村の作品群に声を失った。作品から醸し出される一村の気迫が、時空を超えて観る者に迫ってくる。潮風を受けたクワズイモの葉が生きたように揺らめき、雲間から洩れる微かな陽光を受けたアダンの針葉は、意志を持っているようだ。「一村は神を描いた」という者もあるが、確かに、彼は奄美の生命力溢れる自然の中に、人間の力の及ばないあるもの、すなわち「Something Graet」でも見ていたのかもしれない。
時は移り、一村が奄美の自然を描いてから三〇年以上が経った。そして、日本は今や世界第二位の経済大国として堂々たる地位を得るに至った。しかし、「大なる文明の底には大なる野蛮がある」と、明治時代に生きたある著名なジャーナリストは言っている。ハイウェーを走るきら煌びやかな新車の群れや、街に溢れる商品をまともに観て感服するばかりが人間ではない。あらゆる野蛮を覆い隠す東京のような大都会の裏には、その成れの果ての姿が露骨に現れた奄美の森の惨状や、かつてウミガメが上陸した汚れた浜が存在することに想いを致すべきである。自らの文明のツケを、自らの働きによって支払うことができない文明の末路が碌な方面に向かわないことは、すでに歴史の繰り返し証明するところである。
かつて奄美の自然に神を見た一村は、果たして、現在の奄美の情景を前に如何なる感慨を持つだろうか。筆者のそんな思案とはあくまでも無関係に、電車の窓から眺めた東京の街は、今日も鮮やかなネオンに彩られてこうこう煌々と輝いている。
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2004.07.15 Thursday
環境省によると、全国の不法投棄または違法な保管状態にある使用済自動車は一六万九千台。うち離島分は二万一千台に上る。しかし、これは表向きの数だ。現行の「廃棄物処理法」では、所有者が「有価物」だと主張した場合、それは「廃棄物」の扱いとはならない。従って、外見上いかにゴミと判定されるような代物(しろもの)でも、「廃棄物処理法」上の「廃棄物」とは限ら
ない。
龍郷町から本茶トンネルを抜けて、名瀬市側の林道を入ったところに積まれた廃車の山などはまさにそれだ。古物商の資格を持つ鳶(とび)業者が使用済み自動車を集めてきては、売れる部品を取り外す。部品を外された廃車はその場に積まれていくわけだが、結果周辺に放置された廃車はすでに数百台になる。鳶業者に言わせれば、それらは「商品」であってゴミではない。であるから、不法投棄と非難される筋合いはない。
従って、現実には、環境省の見解よりもはるかに多い使用済自動車が全国の山野に放置されている。離島の場合、処理費用のほか島外搬出の費用が余分にかかるため、なおさら放置を生みやすい。環境省の試算では、鹿児島県全体で不法投棄または違法な保管状態にある使用済自動車数は五,八三三台。うち離島分は二,五二五台。これに対し、名瀬市の試算では、平成十四年度末の市内放置自動車数は三,三〇〇台を超えるという。「廃棄物処理法」の影に隠れた放置自動車がいかに多いかということだ。
法制度の不備によって、かかる事態を引き起こしたのは明白であると言わねばならない。近年におけるモータリゼーションの発達とそれに伴う諸問題に対処するため、ついに平成十四年七月「自動車リサイクル法」が国会で成立、平成十七年一月一日から本格施行の運びとなった。同法以後は、使用済自動車はすべて「廃棄物」扱いとなり、山野に自動車を放置すれば、いかに「古物」と主張しても犯罪となる。現在放置されている所有者不明の使用済自動車をいかに撤去するかという問題は依然として残るが、不法投棄車撲滅に向けて確実な一歩を踏み出したと言っていいだろう。法律施行をきっかけにして、奄美の森の一日も早い原状回復を願いたいものだ。
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