2005.05.12 Thursday
倫敦は、海を50キロほど入ったところに広がっている港町だ。ロンドンの語源はケルト語で「リンデン」、即ち「湖の端」という意味だという説があるが、確かなことは判らない。が、要するに海につながるテムズ河の岸にできた港町で、何処まで行っても、テムズ河と倫敦は一体に考える必要がる。
倫敦の中心に近いところでは、テムズ河はどこも河岸工事が施されていて、散歩をするには最適だ。また、テムズ河から倫敦を見なければ、倫敦そのものを理解することはできないという説もある。
一日、僕はランベスの辺りから今日の目標だったセント・ポール寺院までの道のりを、テムズの流れに沿って歩いた。澄んだ水とは言い難い、濃い泥色をした河の水が、湖の影響で東から西へと流れている。その河岸を、ウェストミンスター橋からブラックフライアース橋までの2キロ近くの距離で、ヴィクトリア・エンバンクメントが走る。日本人観光客があまり興味を示しそうにない河沿いの道からは、一味違った倫敦を観ることができる。
映画『哀愁』で、ヴィヴィアン・リー演じるバレエダンサーのマイラと、若き陸軍大尉ロイ・クローニンが出逢ったウォータールー橋は、今は新しい石造りのアーチに変わってしまったが、2人が観た90年前の倫敦はどんな光景だったのか、というようなことも考えてみる。
そのウォータールー橋から観るセント・ポールの大ドームは、今日も泰然として、建築以来倫敦のシンボルと言われたその姿を現している。
セント・ポールの大伽藍は、1666年の倫敦大火の後、英国一の大建築家クリストファー・レンが、35年の歳月を費やして造ったものだ。内部の装飾などは極めて壮大で、サー・クリストファー・レンが、この事業にいかに想いを尽くしていたかが解る。倫敦を訪れた外国人は、セント・ポールと、この寺を造ったレンの魂に敬意を表した後でなければ、倫敦を離れることはできないとしてある。
僕は、大ドームの頂上にある、垂直83メートルのゴールデン・ギャラリーから倫敦全市を見渡した。このドームが300年来見続けた倫敦は、今日も刻々と変化を遂げながら、未来への歩みを進めている。
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2005.05.07 Saturday
地下鉄ディストリクト線に乗って、ウェストミンスター駅で降りる。階段を上ると、すぐ横にビック・ベンの高楼が天に向って延びている。
と、10時を指した大時計から美妙なる響きが徐に降ってきた。最も倫敦的と言われる鐘の音が辺り一帯に広がって、道行く人は憶えず足を止めて聴き入っている。
英国というと必ず引き合いに出されるのが、このビック・ベンを伴なったパーラメント及びウェストストミンスター・ホールだ。成文法がないくせに、世界一恐ろしいと言われる英国憲法が作られた場所である。
直線と鋭角三角形を集めたゴシック建築の全景を眺めたいなら、ランベス橋からテムズ河を向こう岸に渡ってみるがよい。重たい灰色の雲の、今にも泣き出しそうな倫敦日和の空の下で、パーラメントがその壮麗な姿を見せるだろう。遥か向こうに見える、これまたゴシック調のウェストミンスター寺院の西塔を併せて眺めれば、どんな国から来た人間も、そのあまりの倫敦的光景に寒気がするほどの感動を憶えざるを得ない。
今僕の目の前にある建物は第2時世界大戦後に建てられた3代目らしいが、その発祥となると、11世紀のウィリアム??世の時代まで遡る。その後、1834年の火事で焼けてゴシック風の壮大な建物となるが、戦災を受けて残ったのはウェストミンスター・ホールのみであった。
その昔、ウェストミンスター・ホールからホワイト・ホールの方へ渡った所には、ロンドン警視庁の建物があった。以前ここにはスコットランド王の屋敷があったことから、「スコットランド・ヤード」と呼ばれてホームズの推理小説にも登場したが、ロンドン警視庁は、その名称とともにセント・ジェームズ公園の南側に行って建っている。
残されたパーラメントとウェストミンスター橋と、美妙なるビック・ベンの声が、今も英国を代表して倫敦見物の外国人を迎えている。
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2005.05.01 Sunday
倫敦第一の称のあるハイド・パークでは、日曜の午後になると伝統のスピーカーズ・コーナーが賑やかだ。さすがに議会制民主主義発祥の地だけあって、一般市民に到るまでスピーチの機会が与えられるのは、感心と言う外はない。英国首相の条件にスピーチの優秀さが数えられるのは当然で、歴代首相は、ほとんど例外なく演説の名手である。
ハイド・パーク・コーナーの駅を上がって、公園の南側の門をくぐってマーブル・アーチを目指して歩いて行くと、やがて無数の人だかりが見えてくる。露天の政治家が、台に上って口角泡を飛ばして論じる周りを取り囲む聴衆の群れが、あちらでひとかたまり、こちらでひとかたまり。中には、壇上の弁士に反撃しているのもある。申し合わせた訳ではあるまいが、弁士には黒人やアラブ人が多く、人種問題、宗教問題が中心のようだ。傷だらけの上半身を露わにして、汗だくで反戦論を打っているのもあって、一帯は大盛況を醸している。
議論が白熱している割に喧嘩になりそうにないのは、全体に余興的な要素があるからで、弁士もこれで飯の食い上げになる心配がないからだろう。聖書を片手に真面目に論じている弁士の横で、漫才のような奴が笑いを誘っていたりする。あるいはこの余裕が、100年以上このコーナーが続いている理由かも知れない。
公約を反故にするくらいが何だと言って恥じるところのない日本の首相も、ここで1度演説をやって、民主主義の根本を学び直すが良かろうと思った。
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2005.04.26 Tuesday
バッキンガム宮殿で衛兵交代の儀式を観て、「The Mall」と呼ばれる並木道をトラファルガー・スクエアまで戻った後、僕は倫敦一の繁華街ピカディリ??・サーカスの一角にあるパブに入った。倫敦の街にはそこら中にパブがあって、昼となく夜となく営業している。僕のガイドブックには、倫敦人は喫茶店に入ると同様の料簡をもってパブに通うとある。
僕は酒を飲むためでない、ランチを摂るためにパブに入ったのだが、売り子に是非にと勧められては、これを断る訳にはいかない。
パブの支払いは全て前金制で、注文と同時に支払うのが決まりだ。ランチとビールをグラス1杯で7ポンド40セントの料金は、あまり高いほうではない。物価高の倫敦では、ランチだけで10ポンド即ち2000円も取られるなどは珍しくない。
冷えたラガービールを飲みながらランチの到着を待っていると、僕の隣に、ショーン・コネリーのような風貌をした老爺が座ってきた。ギネスビールを注文すると、カウンター越しに売り子と何やら盛んに論じ出す。
時折僕に同意を求めつつ話す内容を聞くに、この叔父さんアメリカのブッシュ大統領が嫌いらしい。外国人にはちょっと解りかねる英語を振り回して同大統領をこき下ろしている。
だんだん話をすると、この老爺は有名なロイズ保険協会で長年働いて、数年前ついに退職したそうだ。今は倫敦名物のダブルデッカー・バスを運転していて、休みになるとパブに通っている。最後は「毎日パブ・ライフだ」と言って笑った。
1人旅をしていて、こんな倫敦的親父と話ができる場所は、パブをおいて他にない。倫敦名物の一たる所以である。
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2005.04.22 Friday
ホワイト・ホールからパーラメント・ストリートへと歩いて来ると、左側にビッグ・ベンと国会議事堂即ちパーラメント、右側にウェストミンスター寺院のゴシック風の建築が見えてくる。倫敦を訪れた外国人が、もっとも倫敦的色彩を感じる光景だ。
で、英国の結晶と称えられるウェストミンスター寺院を実際に初めて目にした時の、僕の正直な感想は、想像していたよりもみすぼらしい、薄汚れた石の寺だというものであった。まさか、永年太陽の光を浴びている間に縮んでしまった訳でもあるまいが、話に聞いていた内容からすると、どうも見栄えがしないように思われる。6ポンドの入場料はあくまで倫敦名物たるに背かないが、果たしてその実は伴なうのか。
僕はかかる疑問を感じながらも、北側の入口で6ポンドを渋々支払って中に入った。
北側の入口一帯は、いわゆるステーツマンス・アイル(政治家の廊下)と呼ばれている。入ってすぐ右側では、チャザム伯大ピットが右手をかざして、はるか頭上で演説をしている。ふと左を見ると、ダウニング父子が石像になって立ち、その隣にディズレイリ、グラッドストン、パーマーストンの石像がある。ウェストミンスターでは床下に遺体を埋めて祀っているのだが、これらの偉人たちも例外なく地面に埋められて参拝者に踏みつけられているのは、日本人からするとちょっと異様だ。
政治家の廊下から左に折れると、王たちの家と称する一帯だ。何とか何世という王様連が、大抵は夫婦並んで仰向けに寝かされていたが、生涯独身のエリザベス1世はやはり1人で眠っている。
順路に従ってヘンリー7世チャペルの精巧な天井細工に感服した後、さらに王たちの家を進むと、やがて詩人小路(ポエット・コーナー)に突き当たる。詩心のない僕に見つけられたのは、シェイクスピアとD・Hロレンスのみであったが、ここでも無数の石像と床下の墓碑が参詣人の足を留めていた。
ポエット・コーナーから会衆席を経て、クリストファー・レンが建て増した西の入口にかけてが、ウェストミンスターの内観上最も迫力のある場所だろう。外観上は僕の目にもあまり振るっていそうに見えなかった姿が、一種の威厳を伴なって眼前に現れたのだ。あまり幅のない本堂の天井から、筋の入った柱が二列に並んで西の入口の方へと続いている光景は、100フィート程の天井を、その何倍もあるかのごとき錯覚を起こさせる。
この世で行われた幾多の激烈なる歴史上の争いも、今や諸行無常の空気のうちに静かな眠りについている。それらを一堂に集めるウェストミンスター寺院は、英国の結晶と呼ぶに相応しい存在だ。
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2005.04.13 Wednesday
倫敦で最も古い銅像だというチャールズ1世の像を真っ直ぐに、パーラメントの方向へ延びる往来をホワイト・ホールという。
クロムウェルの反乱の折、今は乗馬の銅像になったチャールズ1世自身が断頭台に上った場所で、昔ここに同名の宮殿があったという。その宮殿は300年前の火事でほとんどが焼けてしまって、今はバンケティング・ハウスと呼ばれる建物の一部が残るばかりだが、ヴィクトリア朝になって、石造りの大建物が建ち並ぶ官庁街になった。いわば倫敦の永田町、霞ヶ関とでも言うべき場所である。
トラファルガー・スクエアを背にして進んでいくと、往来の右側にホースガーズと称する近衛騎兵隊の司令部がある。五月人形のような近衛騎兵が門前に二騎、観光客の群がる中で不関宛として小揺るぎもしない姿が印象的でもあり、滑稽でもある。 ホースガーズの隣には、首相官邸の大建物がある。昔は外務省が入っていたはずだが、さすがに、20世紀の国際情勢は、英国首相を初代ウォルポール以来のダウニング・ストリート10番地のレンガ屋に燻り返っていることを許さず、隣の外務省があった建物を使わしめるに至ったようだ。その外務省は、辻向かいにある昔の文部省が入っていた庁舎に引っ越している。
ところで、往来を歩いていて気づいたのは銅像の多さだ。件のチャールズ1世のほか、見知ったものではホースガーズの裏手にロバーツ元帥、パーラメントスクエアのチャーチル首相、パーマーストンの像があった。
これら銅像で拝むことのできる人物、その他銅像にならなかった無数の歴史上の人物の愛国者を生み出したのが、ここホワイト・ホールである。
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2005.04.09 Saturday
憧れの倫敦へやってきて、劈頭一番に訪ぬべきは、果たして何処が相応しいか。名所だらけの倫敦に到着した外国人を、常に悩ましてきた問題が即ちこれである。
ガイドブックの観光スポットの1番目に載せらるるパーラメントか、倫敦一の繁華街ピカデリー・サーカスか、倫敦のシンボル、セントポール寺院か、はたまた「The Museum」大英博物館か。
念願の倫敦を見学するにあたり、僕には逢うべき人物がいる。即ち、トラファルガー・スクエアーのネルソン提督だ。
トラファルガー沖の海戦でナポレオン艦隊を打ち負かして、大英帝国の英雄となったネルソン提督は、以来、倫敦の真中のこの広場に祀られているはずである。
宿の近くの通りからチューブ(地下鉄)にもぐり込んでチャーリング・クロッスまで乗りつける。「Trafalgar Square」の案内に従って階段を上ると、聖マルチン寺院の尖塔の向こうに、145フィートのローマ式の柱台に立つネルソン提督が見えてきた。
倫敦らしからぬ快晴の空の下、足下に四頭の大獅子を走らせた提督はちょっと得意気だ。広場の隅にはゴルドン将軍が哲学者然と沈思黙考した姿で立っているが、将軍の瞑想の何たるかは、100年経った現在も、凡人からはやはり見当が付きかねるようだ。
ウィリアム・ウィルキンスの設計に成る希臘式のナショナル・ギャラリーで、ゴッホ、レンブラント、ターナー、ミケランジェロ、ダ・ビンチその他無数の名人たちの絵画に敬意を表したなら、倫敦市民と外国人観光客でごった返すトラファルガー・スクエアを後にして、ネルソンの眺める方角を目指して、いよいよ倫敦見物へ出かけよう。
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2005.04.06 Wednesday
山本夏彦翁が、昔、公務員を称して腰弁と言ったことがあります。「腰弁」は腰弁当の略で、謂う心は、覇気も野心もない小役人というほどの意味だそうです。
僕の勤務する職場は、東京の永田町にある任意団体で、役所の親戚のようなところですから、夏彦翁のいわゆる腰弁が寄り集まった職場です。そういう僕も、紛れもない腰弁の1人です。
毎朝決まった時間に出勤して、決まった仕事を決まったルールに従ってこなしている腰弁に覇気も野心もないことなら、誰あろう腰弁の一味である僕はよく知っています。人間覇気も野心もなくなると、瑣末な事柄が、さも大問題のように思うのは無理からぬことで、瑣末な事件に一喜一憂して年々過ごしていくうちに、瑣末なことが瑣末でなくなっていくこと、周りの様子を見れば明らかです。いずれの腰弁も、日々勃発する些細な出来事に夢中になって、たまには僕もその渦中の1人になって、来る日も来る日も明けていきます。
生涯、人を使うばかりで使われた経験のなかった祖父が「そんなところで仕事をして面白いか」と、僕に訊いたことがあります。腰弁の巣窟たる我が職場ほどつまらないところはないと、あるいは考えていたのでしょう。
50年来の政治家だった祖父は、腰弁とは正反対の、覇気の塊のような人で、常に天下国家を論じて腰弁に甘んじている僕を啓蒙しようとしたのかもしれません。古今東西をあまねく視野に収めた祖父の口話を聴く度に、僕は井の中から引きずり出されて、大海を泳ぐような想いをしたものです。
僕はその祖父を尊敬する孫ですから、腰弁に囲まれて仕事をしていながら、また自らも腰弁でありながら、その流儀とは意を異にすることが、実はないではありません。けれども大事件を瑣末だと言っては角が立ちますから、瑣末なことでも、さも大事件に出くわしたらしく、大げさに驚いたり笑ったりしています。そして肚のうちで、腰弁らしからぬ覇気を養っています。。
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2005.03.26 Saturday
今までの十数回の旅の中で、僕が唯一先進国を歩いたのは、イギリスの都ロンドンです。愛読書に昔のロンドンを描いた古い本があって、僕は、いつかこの本を持ってロンドンを歩いてみたいと願ってきました。
で、その夢が叶ったロンドン旅行でも、僕は毎日旅行紀を書きました。本をたくさん読んでいったせいで、少々能書きが多いきらいがありますが、これから、時々『倫敦紀行』を掲載したいと思います。今日はその第1話…。
成田から飛行機に乗り込んで12時間余、僕は何の苦もなく倫敦に到着してしまった。かつて倫敦への旅が1ヶ月半の時間を要していた頃、日本人は太平洋から印度洋を経てスエズ運河を渡り、地中海から欧州大陸へ上陸したものだ。ところが、今や100分の1の時間でユーラシア大陸をひとッ飛び。如是閑が倫敦を目指したシベリア鉄道の上空を、たった数時間のうちになぞってきた訳だ。
今回の旅に出る前、何ゆえ今さら倫敦などへ行くのだと人に随分言われたが、是非もない、昨今の世界情勢は、僕に冒険旅行を一時休止せしめ、遂に憧れの都へ向わしめる趣を呈しつつある。総ての道は倫敦へ、ではないが、僕は今までヒマラヤ山中で、メコンの濁流の上で、アラビアの陽射しの中で、アンデス高原の星の下で、来るべきロンドン訪問の日を夢見ていた。
僕の夢のうちにあったのは、即ち100年前の倫敦である。これから僕が目にするのは、21世紀の倫敦である。永年憧れた倫敦に逢うために、漱石のいわゆる「地下電気」に乗って、まずは市内へと出かけよう。
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2005.03.24 Thursday
漱石の“猫”なら、麦酒に酔った末に烏の勘公が行水に使っている水がめに落ちて死んだはずだと、名作「猫」を読んだことのある人は誰でも知っているでしょう。それが、三十有余年の後にその水がめから這い上がってきて、ドイツ語教師五沙弥先生の家に住み込んだらしいということは、知らない人の方が多いかもしれません。
『贋作吾輩は猫である』を書いたのは、漱石の弟子、内田百??。近代日本文学の金字塔『吾輩は猫である』に、堂々と「贋作」の字をつけたところが気に入って、僕はこの本を手にとりました。“贋作”を読むのだから、“真作”にも敬意を表さずばなるまいと、“贋作”の前に漱石の「猫」を読み直しました。
十数年ぶりに味わった「猫」は、日本語の深奥を余すところなく発揮した、文字通りの傑作です。漱石は英文学の教師ですが、多くの漢詩を遺しているとおり、英語などより漢籍の修養が深い人で、「猫」のリズム感と泉が湧くような言葉の数々は、現代作家にはちょっと真似のできないものです。
水がめの中で三十数年を過ごして、再び人間世界に戻ってきた猫は、さすがに年の劫で穏やかに構えています。漱石の猫は、人間以上の見識を備えていると自ら恃んで、人間界を痛烈に風刺しますが、百??の猫は五沙弥先生と友人達の会話をのんびりと聞いている風です。時々、漱石の「猫」の場面を回想するシーンがあって、百??の“真作”に対する敬意が読み取れます。“真作”を読んでから“贋作”に向かうと、味わいがより深まるようです。
学生時代、大学の図書館の前に住み着いた一匹の猫がいました。野良のくせにまるまると肥えていた彼は、来る人来る人に猫なで声で食べ物を求めては、もらえないと解ると途端にそっぽを向いて去っていきました。
人の言葉は喋りませんでしたが、彼も腹のうちでは漱石の猫のように、人を見下していたのかもしれません。
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