毎朝決まった時間に出勤して、決まった仕事を決まったルールに従ってこなしている腰弁に覇気も野心もないことなら、誰あろう腰弁の一味である僕はよく知っています。人間覇気も野心もなくなると、瑣末な事柄が、さも大問題のように思うのは無理からぬことで、瑣末な事件に一喜一憂して年々過ごしていくうちに、瑣末なことが瑣末でなくなっていくこと、周りの様子を見れば明らかです。いずれの腰弁も、日々勃発する些細な出来事に夢中になって、たまには僕もその渦中の1人になって、来る日も来る日も明けていきます。
生涯、人を使うばかりで使われた経験のなかった祖父が「そんなところで仕事をして面白いか」と、僕に訊いたことがあります。腰弁の巣窟たる我が職場ほどつまらないところはないと、あるいは考えていたのでしょう。
50年来の政治家だった祖父は、腰弁とは正反対の、覇気の塊のような人で、常に天下国家を論じて腰弁に甘んじている僕を啓蒙しようとしたのかもしれません。古今東西をあまねく視野に収めた祖父の口話を聴く度に、僕は井の中から引きずり出されて、大海を泳ぐような想いをしたものです。
僕はその祖父を尊敬する孫ですから、腰弁に囲まれて仕事をしていながら、また自らも腰弁でありながら、その流儀とは意を異にすることが、実はないではありません。けれども大事件を瑣末だと言っては角が立ちますから、瑣末なことでも、さも大事件に出くわしたらしく、大げさに驚いたり笑ったりしています。そして肚のうちで、腰弁らしからぬ覇気を養っています。。
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